
毎週土曜日、朝のお散歩コース。
今朝はいつもとはちょっと違う道を通ってみます。
「弘法の清水」。
多岐の地元は、日本名水百選に選ばれた湧水群があって、
その中の代表的なものが、此処です。
全国に数多くある弘法大師伝説の一つ。
昔から当たり前にそこにありすぎて、別段気にしてなかったけれど、
ミラージュを読んで、弘法大師の偉大さを改めて知り、
その伝説が自分の身近にあることが、なんだか不思議。
もう一つ。
近くには、弘法山というのがあります。
多岐の幼稚園の園歌にも♪~こうぼうやーまもみえてます と歌われてます。
小学校1年の秋の遠足コースでもあります。
うわ~い、リアルに身近すぎでしょ。
此処は桜の名所にもなっているので、
またその頃になりましたら、写真撮りに行ってこようと思います。
さてさて、「神紋」読書進行状況です。
現在、4巻途中まで進んでおります。
これから連城が奈良へ行こう(逃げるの?)としてます。
ページは順調に進んでるんですが、
まだ多岐の中のエンジンがかかりきってないような状態です。
何だか、思ってた以上に自分でハードル上げてたのかも知れません。
ミラージュで感じた、読んでる此方をも飲み込む何かを、
まだ「神紋」から感じられないんです。
高耶さんや直江に対して抱いたのは、
読んでいるだけしかできない自分への苛立たしさ、もどかしさ。
高耶さんの吐く息すらも、すぐ近くから感じられる生々しさ。
そして、
自分の中にある空白に何かを突っ込まれるような衝撃。
小説という架空の世界だと承知していながらも、
それをリアルに感じてしまう、存在感。
まだ、「神紋」は、多岐の中では紙の向こうに書かれた文字世界のまま。
連城に対しても、ケイに対しても、
TVや映画の向こうの存在と同じにしか感じられない。
NYでケイは、"観客と役者が一つになって作る舞台"を体感したけれど、
まだそのグルーヴ感が沸いてこない、そんな感じ。
決してつまらないわけじゃない。
この先何が起きるのか、気になるし、惹かれる。
でも、感情までは引き摺られない。
観客席の一番後ろ、ステージが見渡せる位置から、
その舞台の顛末を見届けたい、今はそんな気分。